セックスしたくない男性の「感じ」

 完全に「個人的」な感覚でございますけれど

 

わたしは

「執着のない男性」とは 

セックスをしたいと思わなくなりました。

 

わかりやすい言葉を選ぶならば

「自分は、あなたとでなくても、

誰とでもセックスできますから。

相手にも不自由していません」

 

という「かんじ」の男性ですね。

 

実際に、物理的に

「執着するかしないか」

は別にして

 

女性に執着しない男性がいや

というわけではなく

自分に執着しない男性がいや

というわけではなく

 

「女性には困っていません」

 

というかんじの男性には

興味がなくなり、魅力的に感じなくなりました。

 

そういう「かんじ」を

感じた瞬間に

「そうですか。それではごきげんよう。さようなら」

モードです。

 

ちなみに、2年ほど前までは

真逆でした。

 

「女性には困っていません」

 

と言える自信満々で

自己価値の「高すぎる」男性を

「特別な存在」としてみる

「おかしな癖」がありました。

 

自分に自信がなかった。ので

そういう「特別なひと」と

セックスや関係があること、

もつことで、「自分も特別」になれたような錯覚をしていたんですね。

 

自信満々で自己価値の高すぎる男性に

セックスのパートナーとして選ばれたら

わたしは素晴らしい女性なんだ!

 

という、

見るも無惨な

痛々しすぎる

「アタマの悪すぎる勘違い」です。

 

「たくさんのセックスフレンドがいるから、私は女性としての価値があるのよ」

 

「複数の男性と同時につきあえる私は、複数の男性から女性として大切にされているのよ」

 

というような類いのものに

近いかもしれないですね。

 

 

「女性には困っていません」

というかんじの男性の

 

その言葉の裏に

「何が隠れている」か

にもよりますけれどね。

 

執着しているか

執着していないか

 

どちらかに傾くのかもしれません。

 

特に、スピリチュアル

瞑想的になればなるほど

「執着」を手放す傾向が強くなっていきます。

 

そちらを、強く探求した時期もありました。

 

セックスを通じて

本当に勉強をしてきました。

 

だからこそ、なのでしょうね

 

瞑想的でスピリチュアルな

ほうにこそ

より魅力を感じなくなりました。

 

セックスは、いろいろな方法ですることができますが

体に触れ合わず、溶け合う

ようなエネルギーセックスであっても

 

「女性には困っていません」

 

というかんじの男性には興味がなくなってしまいました。

 

セックスは

誰とでもできますが

誰とでもはしないのです。

 

だから、魅力的に映らなくなったのだと感じます。

 

スピリチュアルが悪い

瞑想的であることが悪い

 

ということではありません。

 

ただ

 

「誰とセックスしても、セックスはセックス。みんな同じだからさ」

 

という意味がわかるだけに

 

「シラける」

 

のですよね。

 

「セックスって、誰としても同じだけど、あなた、俺とセックスしたそうだから声をかけたんだ。

俺のセックスはスピリチュアル、瞑想的で、たまらないセックスだよ」

 

と、言ってしまうかんじ。

 

シラケる。んですよね。

 

誰としても一緒

というひとでは

楽しめないんです。

 

セックスは

お互いの体を駆使して

様々な感覚を研ぎ澄まして

感情を感じて表現して

ふたりで「つくる」ものだと感じているので。

 

 

普段の生活のなかで

感情や出来事に振り回されることなく

ニュートラルに

現実的に瞑想的であるほうが

 

スピリチュアルや瞑想だけを追うよりも

ずっと大切で必要なことだと

感じているのです。

 

現実は超瞑想的です。

 

セックスは

時がくれば

自然にかたちがかわることも

わかっています。

 

だから、楽しんでいるのです。

 

私は、そんなふうに感じています。