意地悪のループ

 

 

今日あったことを話したり

それによって感じたことや思ったことをわかちあったり

 

「そういうこと」ができること

 

は、実は

 

「あたりまえ」

 

ではありません。

 

「ここ」

が、わかると

飛躍的に視野や世界観は

「かわる」と感じています。

 

「あたりまえ」は

「安心感」をくれます。

 

同時に

「なれあい」

「いつもとおなじ」

「かわらない」

という「極」もありますから

それは

「つまらなさ」

に変わり

 

「不満」へ傾き

「不安感」にもなり得ます。

 

どちらの「極」も

もっています。

 

「あたりまえ」になると

あまえがでて

場合によっては

「扱いが雑」になったりしますよね。

 

要は

「あたりまえ」を

「大切にしなくなる現象」です。

 

すると

 

「違い」を感じるようになりますから

 

大切にされることを「要求」する

ようになります。

 

そして「要求」を

「のませよう」としはじめます。

 

「要求」に対して

相手が言うことを聞き入れない場合

「相手を責めること」をします。

 

「思うようにならない不満」のため

相手の意識を自分に向けさせるため

「ケンカ」をふっかけ

 

相手が「こちらを向いた」ら

「ののしり」

それを継続的に行うため

「いがみあい」

結果

「自分の主張が正しいこと」を「わからせるため」に最終的には「口もきかなくなる」

 

相手の意識を向かせるため、と、いちばん人がいやがること

「無視」で仕上げる。

 

のかな。と感じます。

 

「感情を出す」には

 

どなる

暴れる

詰め寄る

責める

なじる

無視する

殴る

 

などなど

いろいろな「表現」がありますね。

 

本当に「わかってほしい相手」

「それらを、やりたいようにやらないと終わらない」

 

といいますか。

 

「私は、あの人に対して、こんなふうに感じていたんだ」

 

という

「感情をみつける」こと

をしたら

 

「感情を出せる相手」を探す。のですね。

 

これが

「ケンカ」の「もと」です。

 

しかし、大抵の場合

「感情を出せる相手」は

「きもちを理解してほしい相手」ではないため

「解消されない」し「報われない」ことが起こります。

 

 

「感情」は

「感じきれば抜けていく」のですが

 

問題は

「感情を感じられないこと、みつけられないこと」

ではなく

「感情を出すべき相手に、出せないこと」にあります。

 

結論といたしましては

自分が「親にされたような意地悪」を

「相手」に「無意識にしている」うちは、現実はかわらないということ。なのですよね。

 

ごめんなさい。

許してください。

 

それらが、

自分で、わかってほしい人にいえないから

それらを言わない人が

「目の前にいる」わけです。

 

自分がされてイヤだったことを、人にしてはダメなのは

 

「自分を大切にすること」と同じことなのだと感じています。