借金グセを治すには

以前、何かで

 

「借金は、未来の自分からお金を借りてくること」という

表現をされている文章をみかけた記憶があります。

 

この表現は

とても「わかりやすいなあ」と感じたことを覚えています。

 

過去の知人に、車がとても好きな男性がいらっしゃいました。

その方は

ポルシェのボクスターを買おうか

同額くらいで、もっと機能性の高い車種にしようか

数か月、悩んでいらっしゃいました。

 

ポルシェのボクスターは、恋人と乗るには最高

しかし、子どもを乗せるにはいろいろ不向き

 

結局その方は

ポルシェを購入されませんでした。

 

いろいろと考えた結果

「自分が本当に欲しいほう」と

「自分の子どもが喜ぶほう」と

「お値段と機能性に見合うほう」を

選ばれたのだとか。

 

この方は、車の購入を検討されているとき

「実際に買えるだけの金額」を「現金」で持っておられました。

 

持っておられましたが、この時は

あえてローンを組んで購入するとおっしゃっていました。

 

お金がない。けど「欲しい」から「ローンしてまで買う」

 

ということと

 

お金がある。けど「これ」は「ローンで買う」

 

ということは全く違います。

 

「ない」ところから「ある」状態にして「出す」ということと

 

もともと「ある」ところから「順番に出す」ということは

 

全く違います。

 

この男性は、さすがだなと思いました。

ちゃんと「わかっていらっしゃる」のだと感じました。

 

この違いがわからないと

「普通に借金を背負う」ことになってしまうと思います。

 

そういう「基本的」で「当たり前」のことが

わからないのは現実的とは言えません。

 

自分が「持っている金額分」のモノは「買う」ことができます。

それが「今の自分が買えるもの」です。

 

言い方を変えると

「自分に相応しいもの」と言えるかもしれません。

 

しかし、人は時に

「見栄を張る」ことがあります。

 

自分が欲しいもの。ではなく

「誰かに見せるため」

「誰かに褒められるため」

「誰かにうらやましいと思わせるため」

「誰かに憧れられるため」

「誰かに注目されるため」

「誰かにすごいと言われたいため」

 

選択する基準が

 

自分が「好き」な

自分が「欲しいもの」とは

全く違うことがわかります。

 

自分が欲しいモノではなく

他人が「欲しがりそうなモノ」を買い始めると

もう、収拾がつかなくなります。

 

しかし、そういったとき

肝心の本人は「そこ」に気が付くことはできません。

自分がお金を出して買っているものが

自分が欲しいモノではなく、他人が欲しがっていると

「自分が感じているモノ」とは思っていないからです。

 

他に、よくあるのは

「自分の自信や存在価値をお金で買う」というモノです。

 

セミナー、研修、資格取得などなど

「自分ができないことをお金を出して買う」というモノです。

 

こういったモノは、金額はピンからキリまで様々

種類も非常にバラエティに富んでいますので

「選びたい放題」存在しています。

 

そういったモノは「非常に高額」なモノもございますね。。。

 

「お金がない?だからやるんじゃないですか!」

「この権利が、この金額で買えるんですよ?」

 

大抵の殺し文句は

 

「お金を得るために未来の自分に投資するんですよ!」

 

自己啓発モノは、これでキマリです。

 

「しあわせになるために、本当の自分のために、

自分にお金を払ってあげるんですよ!」

 

スピリチュアルモノは、これでキマリです。

 

表現や言い回しが違うだけで

よーく見ると「ウラにあるメッセージは一緒」だったりするのです。

 

お金がない人、自信がない人に

「借金してまで、自分のつくったものにお金を払わせたい」

 

しかし、「そこ」に気づかないと

さんざん悩んで、さんざん迷った挙句「払ってしまう」のですよね。

 

自分の未来に「可能性」を感じてチャレンジするのは大切なことです。

しかし、お金はエネルギーです。

 

当然のことながら

「湧いてくる術」がなければ

必ず「使えばなくなります」

 

その「湧いてくる術」を持たず

お金を稼げない

お金を作り出せない「自分」が「選択」することには

慎重になりすぎるくらいが「ちょうどいい」と

私は感じています。

 

いままでできなかったことが

いきなりできるようになることは

まずありえません。

 

ですから

 

自分を「信じること」と

自分を「過信」することを

間違えてはいけないのです。

 

未来の自分からエネルギーを借り続けるなら

「湧いてくる術」を身に着けない限り、身を滅ぼします。

 

未来の自分に「たかる」のをやめて

今の自分で「稼ぐ」「創り出す」ことが

 

ほんとうの「自立」ではないかと感じます。

 

自分にないものを買いつづけるのは

キリがないのです。

 

お金で自分にないものを買っているうちは

何も変わりません。

 

お金を払って、そうなるのではなく

いま、ただ

そうなればいいだけ。ですから。

 

パートナーを「私物化」する「さげまん」のお話

ある日

 

あなたが

仕事から帰宅し

着替えて遊びに出かけようとクローゼットを開きました。

そこに

着ていこうと思っていた服が見当たりません。

 

その服は

自分が一生懸命に働いて買った

「お気に入りの高級ブランドの服」でした。

 

そのブランドの服だけが

すべてクローゼットから消えていたら

あなたは「どんなこと」を感じるでしょうか?

 

好きなものや、気に入ったものであれば

ちょっと高くても頑張って購入したいと思いますし

モノによっては、ローンを組んででも購入します。

 

いずれにせよ

「自分の持っているお金でこれを買おう」と決めて

自分のお金で買っていた自分のモノですから

「ある日突然なくなった」というのは異常事態なわけです。

 

自分以外の人が「断りもなく無断で勝手に持って行った」場合

「盗まれた」ことにもなります。

状況によっては立派な「犯罪」です。

 

しかし、これが

「パートナー間」ですと「お話が変わってくる」という

不思議なお話。

 

この「断りもなく無断で勝手に持って行った」人物が

パートナーだった場合

それは明らかに「何も知らない子ども」ではありません。

 

自分の子どもが「ふざけて隠した」ですとかいたずらして着ていて、どこかに脱いで忘れちゃった

などではないわけです。

 

明らかに「意図」があるわけです。

 

あなたは、自宅にいたパートナーに尋ねます。

 

「ここに入れていた〇〇の服がないんだけど。知らない?」と。

 

すると、パートナーは答えます。

 

「ああ、あの服、気に入らないから捨てた」

 

これは、私のパートナーに起きた

「ノンフィクション」です。

 

それ以上、何も相手の女性には聞かなかったそうです。

 

もちろん、この時、ブランドの服を勝手に捨てた女性は

「自分がおかしなことをしている」という「自覚」すらないため

「ごめんなさい」という言葉もなかったそうです。

 

この服を捨てた女性は

とにかく「自分の男」を「自分以外の他の女」に触れさせないよう

「必死」だったのだそうです。

 

「自分の男」に「他の女」が言い寄ってこないように

仕事でも常に一緒に出掛け、目を光らせ

「自分の男」の隣に「他の女」は座らせない。

 

「自分の男」が「他の女」と話していると

あからさまに不機嫌になり、場の空気を破壊する。

 

「他の女」から「自分の男」が素敵に見えるようなファッションは

絶対にさせない。

そのためには「自分の男」が気に入っている洋服を「勝手に捨てる」

 

逸話はもっとたくさんありますが・・・

 

この女性は、自分の最愛のパートナーを「私物化」しようとました。

 

男性の「素敵なところ」を「他人の目には触れさせない」ようにし

「自分だけのもの」にしようとすることに

全精力を注いでいた。のです。

 

ついには、離島に永住を計画しており

彼を「誰にも触れさないようにしようとしていた」そうですから

サイコスリラーとしか言いようがありません。

 

しかし、それでも彼は

「いつか、目が覚めるはず。分かり合えるはず」と

信じて、働きづめで

その時を待っていたそうです。

 

結果、どうなったか。。。

 

彼は精神的にも、肉体的にも、ボロボロになりました。

そして、その女性とのパートナーシップを「契約解除」しました。

 

「さげまん」は、

男性にとって大切なものを「大切にして」はくれません。

 

すべて「自分本位」で「自分優先」で「自分勝手」です。

 

どんな手をつかっても

男性の質を「下げる」のです。

 

当然のことながら「なにもかも」うまくいかなくなります。

 

そして、男性が「稼いできたお金」を

「自分自身のため」に「湯水のように使う」のです。

 

さげまんはそうやって「男性に依存」して生きています。

 

理由をつけて、いちゃもんをつけて、執着して

エネルギーを奪い、お金も奪い
どんどんさげまんは男性を「私物化」します。

 

さげまんは「男性の弱み」を握るのがうまいですし

「痛いところ」をちくちくちくちくと

針で刺しながら、にじり寄ってきます。

 

さげまん。は恐らく

ちょっと見ただけではわからないと思います。

 

私は、話していると

「ああ、このひとは・・・(。-`ω-)。。。」

と、見えてくるのでわかるのですが。

 

男性の皆様

大切なものを奪われないように

ぜひ、お気を付けくださいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パートナーが「キャバクラや風俗」に精を出して悩むひとへの処方箋

お金を支払うからには

「お金を支払ってもいい」という

「理由」があります。

 

お金と引き換えにして 

「欲しいもの」をその場所で得られるため

そこに行き、欲しいものを選択し

お金を支払い、手に入れる、受け取る

という「等価交換」をします。

 

これは、キャバクラ・風俗に限らず

「なんでもそう」です。

 

コンビニ・スーパー・デパート・ガソリンスタンド・ホテル・飲食店・旅行

などなど。。。

 

等価交換という意味では全部「同じ」です。

 

今回の題材は

その「等価交換しているもの」が「気に入らない」という現象についての処方です。

 

とても大事なポイントは

「自分の等価交換」ではなく

「パートナーの等価交換」である。ということです。

 

これは

幼い感覚をお持ちの女性や

自分に自信のない女性からよく伺う言葉で

 

自分のパートナーが

「等価交換しているものが気に入らない」

 

という、非常に不思議な言葉です。

 

そこで、この女性は気づかなければならないことがひとつあります。

 

等価交換をしているのは

欲しいものを

わざわざお金をだして買っているのは

「パートナー」です。

 

「女性のほう」ではありません。

 

ですから

女性が欲しいものを

パートナーが買うということは

「ありえない」のです。

 

女性がパートナーに対して

「私、〇〇が欲しいから買ってきてくれるかな?」

と言って「お願い」をしているわけではなく

パートナーが「自分の意思」で選んで買っているわけですから

 

そこを間違えてはいけないのです。

 

女性の中には、なぜなのか

「つきあっている」ですとか

「彼氏」ですとか

「結婚している」ですとか

そういうことだけで

 

パートナーを

自分の「モノ」・「所有物」のような扱いをする方がいらっしゃいます。

 

私が欲しいモノを買ってくるのが

当然。という在り方です。

 

もしも、あなたが

スーパーやコンビニで

買ってくるものに

パートナーから

いちいち毎回

口を出されたら

どんなふうに感じますか?

 

「なんでそんなもの買ってくるの?」

「なんでそんなところに行くの?」

「なんで買い物やめられないの?」

 

こんな質問を毎回されたらどうですか?

 

自分が「欲しい」と思ったものや

自分が「いい」と感じて

つまり「価値を感じて」等価交換したものにケチをつけられたら

どう感じますか?

 

これを無意識にしている方は非常に多いと感じます。

 

「男性は、なぜキャバクラや風俗に行くのか?」

 

それは、その男性によって

「理由があり、すべて違い」ます。 

 

責めるのではなく

「その理由」を知ろうとすることが大切なのではないでしょうか。

 

私のパートナーは

キャバクラも風俗も「興味がない」そうです。

 

スナック・パブ・クラブ・二丁目には行ったことがあるそうですが

特に風俗は「自分には必要ない」と感じたそうです。

 

自分が腹を割って話したい相手

つらい時に愚痴を言える相手

悲しい時に受け入れてくれる相手

思い切り甘えられる相手

望むセックスができる相手

癒してくれる相手

楽しくお酒を飲んで遊びたい相手

 

お金を払わなくても

常にそういうパートナーがいるので

「必要がない」のだそうです。

 

そして

お酒をつくり女性が付いてくださるお店を利用するのは「お仕事」なのだそうです。

 

そこにいくと「しあわせ」で

その人に会うと

「たのしくて」「安心して」「癒されて」

「足りないもの」や「欲しいもの」が満たされる 

 

そういうもののために

 

人は「お金を払う」のです。

 

それが「価値観」です。

 

もしあなたが女性で

パートナーに

「キャバクラや風俗に行く理由」を聞いても

「理解ができない」ならば

まず、

自分が相手を

「満足させられていないという事実」を

受け入れることから始めてみてください。

 

パートナーの言っていることが理解できず

自分が相手を 

「満足させられていないという事実」を

受け入れることが難しいなら

 

「はじめから価値観が違っていた」

ということです。

 

楽しい、しあわせ

と感じるものが「違う」のです。

 

そこに気づければ

また、新しいステージに向かえると思いますよ。 

 

 

ダイエットが成功しない理由

たとえば。

 

何度もダイエットに失敗をして

リバウンドを繰り返し

「思った通りの体型」にいつまで経ってもなれない女性がいるとします。

 

自己流ダイエットやメディアで取り上げられるダイエットで得られる結果は「そこそこ」

 

自分がイメージする成果がでないため

自分一人でダイエットを行うことを諦め

専門家の指示や指導を仰ぐことにします。

 

その彼女のカウンセリングについた

セラピストは彼女の

「通常の生活」と「ダイエットの方法」

について動画の提出を求めました。

 

セラピストは、その動画を見てすぐに

「あること」に気が付きます。

 

しかし、セラピストは

その「あること」を彼女に伝えませんでした。

 

理由は「あること」を

「そのまま直接伝える」と

彼女が傷ついたり、嫌な思いをする可能性があったからです。

 

それはなぜか

 

このセラピストは、ダイエットのプロです。

「太ったこと」がありません。

当然のことながら、スレンダーかつ健康的な体系を維持できています。

 

しかしクライアントである彼女は

ダイエットに何度も失敗しています。

 

健康的で理想的な「自分の体系」

を維持できていないばかりか

「イメージ通りに痩せたこと」が一度もありません。 

 

ですから、お金を払って「痩せられる自分」にしてもらい

「痩せ方」と「太らない方法」を教えてもらうわけですね。

 

最初からこの二人の女性には「完全な違い」があります。

 

セラピストにあるのは

「精神的、肉体的な健常性」

クライアントにあるのは

「精神的、肉体的な障害性」

 

という違いです。

 

これは「誰が見ても明らかにわかる」ことです。

 

簡単に言うと

「健康的なスタイルをしているか、太っているか」

この差です。

 

太っている人は

ある面からみると「栄養失調」といえます。

 

体のために必要なものが不足し

それを補おうと必要のないものを過剰に摂取する習慣がついてしまっているため

栄養のないものが体内に蓄積してしまう。

 

その習慣の結果

栄養ではないものを吸収するからだになっているのですね。

 

しかし、クライアントは

太っているという自覚はあっても

 

そういった「原因」と

「自分が痩せられない理由が何か」 には

自分で焦点をあてることができないのです。

 

セラピストがクライアントの

「痩せられない理由」に目を向けることができるのは

このセラピストは「ダイエット」に付随する

精神的、肉体的な部分が「健常」だから

できること。といえます。

 

クライアントが求めている

「ダイエットの成功」という言葉の裏にある

「健康的で健全なバランスの取れた肉体と精神をつくる」という

「本当に欲しい結果」がセラピストには見えているのです。

 

 

クライアント自身が「本当に欲しい結果」に

自分で気が付かなければダイエットは「成功」しないのです。

 

つまり

クライアントの「本当に欲しい結果」は

クライアントが見ている「目の前にいるセラピストそのもの」

であるといえると思います。

しかし、

セラピストがクライアントに
「あなたは精神的、肉体的に障害性がある」

と「原因」を言ってしまったら、どうなるでしょう。

 

さらに、その後

「この障害を克服するには、こういうことをしたほうがいい」

と「解決方法」を提示してしまったら、どうなるでしょう。

 

クライアントは

私の精神や肉体には、障害性がある。と「ショック」を受け

否定されたような気持になり、そのことに「傷つく」のです。

 

しかも言っている相手は

「欲しい結果そのものの人物」です。

 

自分の「こうなりたい」という理想の自分に

「あなたは精神的、肉体的に障害性があるから痩せません。

そういう意味で、あなたは病気です。

ですから、こういうことをして健康になりましょう」と言われたら

どうでしょうか。

 

紛れもなくクライアントは「いうなり」になります。

セラピストから「言われた通り」にやるようになります。

 

そして、今度は何かうまくいかないことがあると

必ずこういう言い訳をします。

 

「私は精神的、肉体的に障害性がありますので・・」と

 

まず自分にできることを見るのではなく

できない点にフォーカスをする癖があると

既にできているひとを「すごい」と「過大評価しすぎる傾向」があります。

 

すると「あの人はすごい。あの人だからできる」という

「現実のすり替え」が起きるのです。

 

はやく走れるようになりたいなら

速く走る練習をすれば、速く走れるようになりますが、自分がしている練習の中に

「速く走る練習」が入っていなければ

いくら練習しても「速く走れる」ようにはなれませんよね。

 

すり替えが起きると、このように

自分が気づき、努力すれば改善ができる点を

「見れない」という事象が起きやすくなります。

 

目をしっかり開いて、事実だけを見れば

必ず「本当のこと」がみえるのですが

大抵の人は「自分の都合のいいようにしか」物事を見ていません。

 

ですから、このセラピストは
現実のすり替えをさせないために

「あること」を彼女に伝えませんでした。

 

あること。とは

「今のあなたでは 精神的、肉体的に障害性があるから痩せません」

という「事実」です。

 

自分で気づかなければ

ただダイエットで痩せても、また同じことを繰り返します。

 

それでは「何の意味もない」

それは「本当の成功ではない」と知っているから「言わない」のです。

 

そして「そこ」を修正できなくては

クライアントの「成功」はないですから

セラピストの「成功」もないのです。

 

クライアントの「本当のちから」を見抜いているからこそ

できることでもありますが

このアプローチが成立し、結果がでる理由は

クライアントとセラピストに「信頼」があるからといえると思います。

 

ダイエットを例にだしてお話をさせていただきましたが

私のパートナーは

こういったアプローチでコーチングをします。

 

そして私は

こういった視点でセラピーを行います。

 

自分の欲しい結果にあったコーチやセラピーを

選択されてくださいね。

「スピリチュアルで現実的」な友人との会話

私はいままで

 

「この人とは、何のわだかまりもなく本音で何でも話せる」

という人間関係を築くことが「大変苦手」でした。

 

しかし、今は、しあわせなことに

そういった人間関係の中に生きることができるようになりました。

 

友達、仲間、親友、家族、パートナーなど

分かり合える人とのつながりや存在

そういった人ができることを拒否したり拒絶したりしていると

当然のことながら

「わかりあえるひと」は現れません。

 

かつて、そういう「時」が自分自身にあり

経験してきたので、大変そのへんはよくわかります。

 

しかし、素直になってよーく自分に聞いてみると

実は

 

「大勢」でなくていいから

「本当にわかりあえる

友達、仲間、親友、家族、パートナーが欲しいと思っている」こと

に気が付いたことがありました。

 

ただ、自分には

「そういう人がいない」

自分の想いや伝えたいことは

「誰にもわからない」

という具合に

いじけて、周りをねたんで、ひねくれていただけだったのだなあと。

 

今は

わかってくださる方がいて

話ができる方がいて

そういう時間が持てることも、そういう環境に身を置けることも

しあわせなことだと感じています。

 

「わかってくれる人がわかってくれればいい」

という価値観もあります。

 

私が個人的に目指しているのは

「より、普遍的でわかりやすいことばや表現」です。

 

そこにいきついた理由は

目に見えない世界の話が

「みえないだけにわかりにくい」ため

自分自身が「とっても苦労してきたから」だと思います。

 

そんなことを話しながら思い出しつつ

つい昨夜、本音で話せる友人と

こんな話題でやりとりをしていました。

 

「結局のところ、人。」

 

「どんな商品や、モノを買うか。ではなく 誰から買うか」

 

なんですよね。と。

 

信頼のない人から、重要なものや、大切なもの

特に、それらにあたる「高額なもの」は購入しません。

 

自分の感覚で「この人」という人を見つけて

その人の提供するものを「購入検討」したとき

高額であればあるほど「信頼」が重要な鍵になるのではないでしょうか。

 

このお金を払うことと引き換えに、自分が手にするもの。

 

その「等価交換」のイメージが「ふさわしいもの」という判断がつかない場合

購入することは「あり得ない」と思います。

 

しかし

脅されたり、焦らせられたりして

「パニック」になっている時や、そのような状態にさせられている時

人は「判断を誤る」ことがあります。

 

そういう時、周りに

友達、仲間、親友、家族、パートナーがいるかいないかは

大きな違いをつくると思うのです。

 

パニックになっている時、焦って墓穴を掘ってしまったり

しなくてもいいことをわざわざしてしまったり

明らかにおかしなことをしていたりしても

自分ではなかなか気が付くことができないからです。

 

自分が「エネルギー」をかけようとしたり、与えようと

考えている相手が、責任をもって誠実に

あなたの望んでいる「等価交換」ができる相手なのか

客観的に見つめる目は、とても大切です。

 

比較、検討し、冷静に見た結果

等価交換するという判断に至れば問題は起きにくいのですが

 

目に見えない「スピリチュアル」に関することは

特に「慎重になる」ほうが「現実的」です。

 

スピリチュアルは「非常に正確」なことです。

「見えない法則」は

目には見えないだけで「法則」ですから「存在」しています。

 

「いつ、どこでも、一定の条件がそろえば成立する」ことを

忘れたり、見落としたりすることは

「現実的」ではありません。

 

目に見えないからこそ

「自分の心のこえには慎重になる必要がある」という

これは、当たり前のお話です。

 

そういうことがわかっていないと

簡単に「騙されてしまう」ことを忘れないで下さい。

 

自分が「等価交換しよう」としているものが

「ありのままの自分で生きる」

「家族やパートナーシップの健全化」

「自分の性の開花・解放」

などであったとしましょう。

 

それを「商品として売っている」その人の

「家族やパートナーは、本当にしあわせになっている」のか

「性の開花、解放が本当にされている」のか

そして

「本当に、ありのままで生きている」のか

 

 

「本当か確認する」ことが

本当のスピリチュアルへの第一歩ではないかと思います。 

 

あたりまえが、あたりまえ。

最近、映画をよく観ます。

 

映画のシーンで、食事の前にお祈りをするところを

見かけたとき 「あ」と感じたことがあります。

 

「食事と水を与えてくださってありがとう」

 

感謝を

 

「食事を頂く前にまずしている」

 

ということ。

 

私には、ここが

「まったく見えていません」でした。

 

自分は今まで

何かを「してもらったとき」

何かを「もらったとき」

には必ず

 

「ありがとう」と感謝を述べていました。

 

しかし、何かを

「与えてくれよう」としている物事や人物に対して

 

「まず、先に、感謝をする」

という「習慣」がなかったことに気が付いたのです。

 

そして、この習慣は

気が付いていても、できないことであったりします。

 

「感謝」は「わかっていても、無理やりできないこと」だからです。

 

「ありがとう」

 

という言葉は

言われる時も、言う時も

「口先だけで、なんの気持ちもない」場合は

それが自分にも相手にも伝わります。

 

「ありがとう」という気持ちが湧いてこない

感じられないと、「感謝」は

実は「あたりまえには、なかなかできない」のです。

 

しかし、それを

いろんな場面で

「感謝しなくてはいけない」

「感謝ができない人間は悪い人間」

「感謝ができない人間は器の小さい人間」と

レッテルをはられてしまったり、陰口をいわれてしまったりと

 

「感謝しろ!」と

感謝を強要されるため

「してもいない感謝」や「したくもないのに感謝」が

できてしまったのだろうなと感じるのです。

 

それは、紛れもなく

「モノをもらったら、ありがとうって言うんだよ」という

 

「こういう教え方をされた結果」なのだろうなと思うのです。

 

お食事を頂く前に、まず 感謝ができること。

 

お食事をごちそうになったから、感謝ができること。

 

もちろん

「どちらがいい」「どちらが悪い」

という、お話ではありません。

 

 

あたりまえ。は

実はこんなにも「違う」

 

そんな価値観についてのお話でした。

 

 

目には見えない「誰にでもある課題」

先日パートナーと

「大規模に腹を割った意見交換」をしました。

 

物事を話し合うときに、いつも感じるのですが

一生懸命説明したり、伝えたり、話したりしていると

 

「あれ・・・結局ナニを結論として言いたかったんだっけ?」

という具合に

結論が「すっとんでしまう」ことがあります。

 

すると、その一生懸命話していたことが突然

「どうでもよくなったり」

「それで気が済んだり」

することがあります。

 

そういう時は不思議と

結論までたどりつかなくても

「声に出して、伝えたいことをつたえること」で

結構スッキリしていたりします。

 

ということは、恐らく

「それでいい」のだろうと。

 

今回「初めて」思ったのです。

 

今までは「結論」を重んじていましたし

話し合いをするからには「結果」を

というような部分が自分にあることにも気が付きました。

 

ただ

溜まっていたものを

言えずにいた想いを

外に出すことができれば

それでよかったのだと思ったのです。

 

そしてそれを

聞いてほしかっただけなのだと思ったのです。

 

人はそれぞれ「課題」といいますか

「自分がもっている生きているうちに経験したいこと」

もっといえば

「自分が生まれる前に、これをやるぞ。と決めてきていること」

があるのだといいます。

 

私の場合

想いを伝えること。が、「課題」だったとするなら

結論がでていなくても、課題はクリアされています。

 

しかし「課題をクリアできていること」に気が付かないと

「同じことを繰り返してしまう可能性」があります。

 

それがいけないわけではありませんが

「すでにできていること」を何度も繰り返すことに

時間を費やしているのに気づかないでいると

「タイムオーバー」になってしまうことがあるのです。

 

すると

他にしたかったこと。が

できずに「残ってしまう」ため

「心残り」となってしまい

「先にすすむこと」ができなくなってしまいます。

 

しかし、そこまでいくことが課題だったと気づけば

「心残り」ではなく

その場所は「ゴール」ということになります。

 

今回話し合ったことで

「そこ」に目を向けることができました。

 

人生には「制限時間」があります。

 

生まれてから、死んでしまうまで

同じだけの時間が与えられているわけではありません。

 

どう生きても

誰と生きても

泣いても笑っても

その方にしかないオリジナルの「一生」です。

 

自分は「こうしたかった」という想いが

声に出して、伝えたい人に伝えられていることに気づけば

いともたやすく、そこから先に道ができることもあるのだと

 

目からうろこの体験でした。